斎藤先生の誕生日

 




駅前の二四時間営業のカフェで、斎藤はiPadで論文を読んでいた。年末年始で大学病院も『斎藤こども病院』も休みで、こういう時間がたっぷりある時に読んでおかないと普段はなかなか読む暇がない。
……のだが、斎藤は集中できていなかった。     
理由は後ろから聞こえてくる会話。
 女性三人が話しこんでいるのだ。斎藤が全然知らない人達なのだが、見た所千鶴と同じ位の年のようだ。
話に夢中になっているせいで自然と声が大きくなって、話の内容まで斎藤の席からくっきりと聞こえた。
「えー?それは嫌よねえ」
「でしょう?別に付き合ってるんだしエッチは別に嫌じゃないけどでも会うたびに毎回毎回エッチするのっておかしいでしょ?もう最近はデートのために会うっていうよりエッチのために会うって感じで、待ち合わせがまず彼の部屋なのよ。で、そこでエッチして時間があればおでかけ、みたいな」
「エッチさえできればいいのかって感じよね」
「そうそう!遊園地とか映画とか彼と二人で楽しみたいからデートしよって言ってるのに」
 iPadで画面を操作していた斎藤の人差し指がピタリととまる。
 会うたびに毎回……している。
待ち合わせも、二人の時間がなかなかあわないために基本斎藤の家に千鶴が来るようになってしまっている。
 そんな斎藤の様子にはもちろん気づかずに、後ろの三人のうちの一人が提案した。
「ねえ、じゃあ泊まっちゃえば?お互い一人暮らしなんだし泊まれば、夜にそういうことして昼はおでかけってできるんじゃないの?」
「週末とかはそうしてるけど、ぶっちゃけ疲れちゃうのよ次の日。体がだるいし眠くなるし……」
「男の人と女って基本的に体力が違うもんねえ。それを男の欲望のままつきあわされたらそりゃあ疲れちゃうわよね」

な、何回だと疲れるのだろうか。五回くらいなら大丈夫か?三回とか二回とか……一回でも疲れてしまうのだろうか。

斎藤は思わず後ろを振り向いて質問したくなったが、ガマンした。
体力は、そりゃあ違うだろう。体格差もあるし斎藤は道場で鍛えているし、千鶴はもともと華奢な上今は特に運動はしていないようだし。
 お泊りはなかなかできないが、それでも何回かした千鶴とのお泊りの翌日を斎藤は思い出す。
 付き合いだして最初のクリスマスやその後の京都旅行。確かに千鶴は新幹線の中で眠ってしまっていた。と、いうか翌日もそういうことをやってしまったせいで、夜の疲れなのかその日の疲れなのかすらわからない。泊まりや一日中夜まで千鶴と一緒にいられることはあまりないので、そう言う機会があるとつい…つい夢中になってしまうというのは否定できない。千鶴はどう思っていたのだろうか。彼女は優しいから斎藤に面と向かって『ヤりすぎです』などと言えないだろうし密かに不満に思っていたのだろうか……

 斎藤が冷や汗を流しながらそんなことを考えていると、机の上に置いてあったスマホが鳴った。千鶴からのメールで、待ち合わせ場所(千鶴の家のすぐ近くのコンビニ)まで今から出るとのことだ。
 斎藤はiPadをしまい、コーヒートレイを持って席を立つ。
 今日は大みそかでこれから二人で初詣に行く約束をしているのだ。夜も遅く心配なため、千鶴の家の近くのコンビニで待ち合わせることにしていた。

 千鶴はフードにファーのついた暖かそうな白のダウンだった。プリンセスピンクのマフラーをぐるぐるにまいて、膝丈のスカートに厚手のタイツとブーツ。
「あけましておめでとうございます」と悪戯っぽく挨拶する千鶴のかわいさに、斎藤はノックアウトされながらも「まだ早いだろうその挨拶は」とコツンと千鶴のおでこを指で叩く。
二人でコンビニを出て駅に向かう。
「家族は心配していなかったか?」
千鶴は首を横に振った。
「大学のサークルのみんなと行くって言ったんで」
「そうか」
 よく『斎藤こども病院』に千鶴の弟の颯太を連れてきてくれる千鶴の母親の顔を思い浮かべながら、斎藤はやましさに顔を伏せる。斎藤を信頼して颯太を病院まで連れてきてくれて、その上千鶴をアルバイトさせてくれているというのに。いい大人であるはずの『斎藤先生』はその信頼を裏切るように千鶴とつきあい、あまつさえ手までだしてしまっている。
斎藤のいつもの悶々には気づかず千鶴は明るく言った。
「帰ってくるのが大変な様なら泊まってもいい父が。若い人たちが大みそかに一晩中カラオケで騒いだり飲んだり朝日を見に行ったりしてるって、父がどこからか情報を仕入れて来たみたいです。だからお参りがすんだら斎藤先生の家に行ってもいいですか?誕生日のお祝いとか一緒にしませんか?」
「いや、それはやめておこう」
斎藤はさきほどのカフェでの女性三人の会話を思い出して即座に言った。夜遅く家に来てくれて二人きりとなったら我慢できるものも我慢できなくなる。
「でもせっかく斎藤先生の誕生日なのに……?」
千鶴が残念そうな顔をしたので、斎藤は慌てて言った。
「そうだな、祝ってもらうのは嬉しい。初詣でから帰って別々の家で良く寝た後に外で会おう」
「そうなんですか?でも斎藤先生の誕生日には一緒にケーキを焼こうって」
「そういえばそうだったな……」
まあ、昼間なら斎藤の意志さえ強ければ千鶴を襲わずに済ませることができるだろうと考え、斎藤は頷いた。
「じゃあ……昼ごろか?俺の家でケーキを焼くとするか。迎えに行こう」
いつもは『千鶴のいいように』としか言わない斎藤が、今日は嫌にきっぱり段取りを決めるので千鶴は不思議そうに首をかしげた。でも、特に機嫌が悪いという訳ではないし、千鶴の手は今斎藤の手に握られて彼のポケットの中で大事そうに温められているし。
少しだけ感じた千鶴の疑問は、あっさりと千鶴の頭からは消え去った。

 初詣で、斎藤が神様に誓った新年の心得は『禁欲』。
もちろん千鶴には言っていないが。

 まだ暗い境内は大勢の初もうで客でぎゅうづめだった。斎藤と千鶴は御賽銭を入れてお祈りした後も少しずつしか動かない列に並びゆっくりと歩く。
境内の角を曲がると、なぜこんなに列が混んでいるのかわかった。
「お屠蘇ですね」
新年の振る舞い酒だ。巫女さんの姿の女性が三人並び、参拝客たちが伸ばした手にお屠蘇が入っていると思われる紙コップを渡している。
「斎藤先生、飲みますか?車で来てないから大丈夫ですよね?」
「そうだな、縁起物だしいただこうか。千鶴はどうする?そういえば二十歳の誕生日にワインを少し飲んだだけでその後は一緒に飲んだことはないな」
去年に千鶴は二十歳になり、その誕生祝で二人でイタリアンレストランで食事をしたのだ。その時に出されたワインを少し飲んだだけで、その後彼女との話題で特に酒の話はでてこなかった。
「ワインも、あと、ビールも大学で飲んだんですがそんなにおいしいとは思わなくて。特にビールは……」
千鶴は顔をしかめた。それを見て斎藤は笑う。
「確かにあの苦さは千鶴は苦手かもしれんな」
「甘いカクテルとかも飲んだんですけど、自分から進んで飲みたいとは思わないみたいです」
「酒に弱いと前に言っていたな」
斎藤の質問に千鶴は頷いた。
「弱いですしあまりおいしいとも思わないです。日本酒ははじめてですけどせっかくのお屠蘇ですしね」
お屠蘇の順番が回ってきて、まず斎藤が受け取る。
「ん、上手いな。いい酒を使っている」
味わって飲んだ後、隣の千鶴を見て斎藤は驚いた。くーっと一気にいってるではないか。
「ち、千鶴、大丈夫か?」
「え?はい、大丈夫です。日本酒は初めてですけど美味しいです」
驚いたように目を見開いて、自分が空けた紙コップを見ている千鶴に、巫女さんが「よろしければどうぞ」ともう一杯紙コップを渡す。
千鶴は嬉しそうに受け取った。
「千鶴、ちょっと待て。日本酒の冷やは飲みやすいが酔いが後からまわるぞ」
千鶴はまたもや一気に空けると、紙コップをビニール袋に捨てながらケロリと斎藤を見上げた。
「そうなんですか?でもそんなに酔った感じはしないです。日本酒美味しいですね」
最後に何ともう一杯巫女さんから紙コップをもらい、千鶴はそれも飲み干して斎藤と一緒に歩き出した。
「だ、大丈夫か?」
「大丈夫です」
しっかりとした足取りに返事。意外に千鶴は強いのかもしれないと思いながら斎藤は人混みの中を歩く。

アルコールに弱いというより、特定のものが苦手というだけだったのかもしれんな。ビールやワインは確かに味が強いからな。

斎藤もどちらかというと日本酒や焼酎の方が好きなタイプだから、これからは二人で楽しめるかもしれないと思いながら斎藤が歩いていると。
「ヒック」                          
千鶴が大きなしゃっくりをした。斎藤が隣を見ると、既に千鶴の目がすわっている。
「せんせ…ヒック!なんか変な感じで…ヒック!」
「……千鶴……」
斎藤は唖然として千鶴を見て、そして参拝客たちの通行の邪魔になっている自分たちに気づき千鶴を神社の端の方にある木々の所まで連れて行った。その間も千鶴はしゃっくりを繰り返し、足取りはふらふらしている。
「斎藤先生……あつい……」
千鶴はそう言うと、自分のマフラーをとってポイと地面に投げた。斎藤は慌てて空中でキャッチする。その間に千鶴は自分のダウンコートの前のチャックを外し脱ごうとしている。
「ま、待て千鶴。酒で酔って熱くなるのは体内の温度が表面に出てくるだけだ。脱いだら風邪を……」
「せんせい……」
斎藤の言葉を無視して、千鶴は斎藤の手をとった。そしてそれを自分で自分の体に回し斎藤に抱きしめられている形にする。
「だったら抱きしめてあっためてくだしゃい……」
「千鶴、酔ってるな。こんなところでそんな……」
「私!」
急に斎藤を見上げて語気を荒げた千鶴に、斎藤は驚いて言葉をとめる。千鶴はふにゃっとなりながら続けた。
「私、斎藤先生がすっごく好きなんです」
「……」
「だから、斎藤先生にならこんなところで何をされてもいいんです」
「……いや、俺も千鶴が好きだが……」
「本当ですか!?」
千鶴にがしっと服を掴まれて体を密着させてそう聞かれて、斎藤は驚きながらも頷く。もちろんではないか。
「……じゃあ、キスしてください」
千鶴はそう言うと顔を上に向けて瞳を閉じた。斎藤は口をポカンと開けたまま固まる。なかなかキスをしてこない斎藤に、千鶴は焦れて背伸びをした。
「斎藤先生…お願いします。私、なんだか体が熱くて…冷ましてくれるのは斎藤先生しかいないんです…」
耳元で熱い吐息とともにそう囁かれて、斎藤の理性はちぎれそうになった。
しかしついさきほど、新年の誓いで『禁欲』を神に誓ってきたばかりだ。それに酒に酔って理性が亡くなっている千鶴につけこむようなことはしたくない。
「……千鶴、落ち着け。どこかで酔いを醒ましてから帰ろう」
「斎藤先生の家に行きたい。先生、お願い……」
紅潮した頬に潤んだ瞳。下から覗き込む様に見上げられて、斎藤は脳で考えていることとは裏腹に体が勝手に反応してしまうのを感じていた。        
これはマズイ。もうすでに新年の誓いとか先程カフェで盗み聞きした話とかどうでもよくなってきている。千鶴はどうやら酒に酔うと小悪魔属性になるらしい。それはそれで魅力的だが、今このときはかなりまずい。
「さいとうせんせい……」
千鶴はそう言うと、ぴったりと体を押し付けて斎藤の首に手を回した。そして更に背伸びをすると斎藤の唇へ自分のそれをそっとあわせる。
 初めての千鶴からのキス。
ここは外だし人がたくさんいるし神社だし新年だし……と抵抗しなくてはいけない理由は山ほど浮かぶが、斎藤には抵抗ができなかった。          
絡みついてくる千鶴の暖かな腕が心地いいし、押し付けてくる体は柔らかい。唇は甘くて……
斎藤がぼんやりしているうちに、千鶴はさらにキスを深めて舌をからめてきた。
「……」
斎藤は頭のどこかで、最後につながっていた細い理性の糸が焼き切れるのを感じた。形ばかりでも押し返そうとしていた腕が、勝手に千鶴の細い腰にまわされる。
「ん……」
急に積極的にキスに応えだした斎藤に、千鶴はさらに溶けるように絡みつく。


 斎藤の家に帰る時間すら我慢できずに、結局次の朝斎藤が目覚めたのは神社の近くにあるラブホテルのベッドの上だった。
当然ながら新年の誓いも大みそかにカフェで聞いた女子たちの彼氏に対する文句も、全てぶっちぎりに破っている。

一年の計は元旦にありといわれる新年元旦に。
初もうでの帰りお屠蘇に酔った二十歳の女性を。
ラブホテルに連れ込んだ。              
しかも彼女は斎藤の誕生日をお祝いしてくれるつもりだったというのに自分は……

千鶴は隣ですやすやと幸せそうに寝息を立てていたが、斎藤は自己嫌悪のあまり頭を抱えていたのだった。

 






2013年5月12日
掲載誌:Dr.斎藤



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